Death On The Stairs

水上文の日記

日記(4/15)

私たちは同じではない。あなたが被った惨めさを、あなたが受けた暴力を、あなたが生き抜かなければならなかった苦境を、私は何ひとつ知らない。

 

女性同士の連帯=〈シスターフッド〉を描いた物語がだんだんと増えていく。

現実には「分断されている」のだと受動態で語ることさえ憚られる差異の存在に、手を取り合うこと、手を差し伸べることの困難さに直面しているにもかかわらず、物語の中の〈私たち〉は喜ばしく微笑んでいる。現実の私たちは隔たっている。あなたは私をひどく憎み、私はあなたにうんざりしている。剥き出しの差異は私たちを「連帯」には導かない。それが私たちの現実だった。けれども、この剥き出しの差異と困難を描いたらそれは〈シスターフッド〉とは呼べなくなってしまうのだろうか? 言うまでもなく理想を描くこと、勇気づけることは何より大切である。けれども、だからと言って剥き出しの差異よりも破滅的ではない差異を、ぶつかり合った末での決裂よりも失敗に至らない程度の距離感を保った上で優しくすれ違う様を描いた物語の方が〈シスターフッド〉ということになるだろうか?

 

たとえば今年の二月に公開された山内マリコ原作の映画『あのこは貴族』は、破滅に至らない差異が、程よい距離感を保った上で優しくすれ違う様が、〈シスターフッド〉映画として語られ宣伝されていた。[1]

『あのこは貴族』で描かれるのは、同じ国の同じ場所(東京)に住みながら、一方は新年の挨拶に親戚揃って都内のホテルで会食するような上流階級の女性であり、他方は地方から上京し慶應大学に入学するも学費が続かず中退する女性である。通常出会わないこの二人の女性が、男の正妻と浮気相手として出会うことになる。

この映画では、そんな異質な二人の交流が、反目し合うのではない形で――過去の固定観念からすれば、正妻と浮気相手という立場上、憎しみ合う姿が描かれるのがセオリーである――描かれ、なおかつその出会いによってとりわけ「お嬢様」の方が人生を自らの手で舵取りするきっかけとなるところが描かれるのだった。

ある女性との出会いが、別の女性を勇気付けること。そして二人の女性がそれぞれ、男性との関係ではなく、各々の親友の女性との関係に帰着すること。「差異を無効化することなく、差異があってもなおエンパワメントしあえる」様を描いたのだと。

けれどもこの〈シスターフッド〉を支えるのは、境界線によって隔てられた上で手を振り合うような距離感なのであった。彼女達は頻繁に会うことはなく、持続した関係性を築くこともない。文字通りすれ違い、あちらとこちらで手を振り合う。頻繁に会い、持続した関係性を築く友人は各々自分の階層にすでにいる。

程よい他人――つまり、わずかにすれ違うのみなら、さほど長く共に過ごさないのなら、差異が破滅に至らないのはある意味では当然ではないのか? あちらとこちらで手を振り合う、それが〈シスターフッド〉であるなら、あちらとこちらになってしまって手を振り合うよりはむしろ手を振りほどいてしまうような、そんな差異をどう考えたらいいだろう?

手を振りほどきたくなるほど近くよりはむしろ、あちら側とこちら側で手を振り合えるように、程よい距離を保つこと。それがこのあらゆる差異を抱えた中で生きる私達が、にもかかわらず〈シスターフッド〉を成立させるためのひとつの条件だとしたら、この成功したシスターフッドは本当に希望なのだろうか? 希望と言うよりむしろ、あまりにも残酷な処世術に近いのではないか? そんなことはわざわざ描かれるまでもなく、わたしたちが常にやっていることではないのか? 距離を置くこと。程よい他人でいること。持続した関係を築くよりも、手を振り解きたくなるほど近づくよりも、単にすれ違うこと。

 

『あの子は貴族』の女性たちは、優しくすれ違い、あちらとこちらで手を振り合い、各自が属する階級に、そこで長い時間を過ごす本当に近しい友人のもとに帰っていく。それはあまりにもやさしかった。寒々しいようなやさしさだった。だから相変わらず、私はあなたのことを何ひとつ知らない。

 

[1] 文学、お笑い、映画が描く女性の連帯。『あのこは貴族』山内マリコとAマッソ加納愛子が語る、シスターフッドの“いま”(https://moviewalker.jp/news/article/1020939/),(二〇二一年四月十日閲覧)