Death On The Stairs

水上文の日記

これまで書いたものまとめ

水上文名義でこれまで書いたもののまとめです。

書評・批評等の執筆依頼はこちら(mizuaya11@gmail.com)からお願いします。

 

【商業】

・(文春オンライン2020年4月記事)レビュー:

惹かれ合う女性2人、実は……Netflix「ブラックミラー」“神回”の多幸感がすごい | わたしの「神回」 | 文春オンライン

 ・(ユリイカ2020年9月号)批評:「〈消費者フェミニズム〉批判序説」

 青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2020年9月号 特集=女オタクの現在

・(文藝2020年冬季号)書評:高山羽根子『暗闇にレンズ』

文藝 2020年冬季号 |河出書房新社

・(文藝2021年春季号)批評『成熟と喪失、あるいは背骨と綿棒について』

文藝 2021年春季号 |河出書房新社

・(文學界2021年3月号)書評:コルソン・ホワイトヘッド『ニッケル・ボーイズ』

雑誌バックナンバー|文學界|事業紹介|文藝春秋

 ・(文學界2021年4月号)書評:李昂『眠れる美男』

雑誌バックナンバー|文學界|事業紹介|文藝春秋

 

【同人誌】

・「生存戦略 vol.1」(2019年11月発行)(在庫切れ)

高校時代からの友人でかれこれ10年ほどの付き合いがある親友とともに作った、批評エッセイ同人誌「生存戦略」第一弾。オタクやフェミニズムなどいろんなテーマで書いた雑多な散文を集めました。相方の久高春が書いた吉田秋生吉祥天女』の「書かれなかった解説」がお気に入り。『吉祥天女』の版権元は解説をこれに差し替えるべき。

 

・「生存戦略vol.2 女とBL特集」(2020年1月発行)(在庫切れ)

親友とやってる批評エッセイ同人誌「生存戦略」第二弾。長らくどっぷり浸かってきたBLについて自分なりに考え、いくつかの問いかけを設定して文章を書きました。たとえばBL受け攻め文化って一体何なのか? なぜBLでは強姦が頻繁に描かれるのか? どうして狭義の「恋愛」ではない絆を好むのか? なぜ女オタクは男の身体の語彙を使うのか? などの問題です。とても楽しかった。主催二人が完全に真逆のことを言ってバチバチやってるところも味わい深い同人誌(だと思っています)。

 

・「あなたとは別の人生」(2020年4月発行)

mizuaya.booth.pm

「人生に印象を残してる女たち」をテーマとしたエッセイ集。個人誌。

たとえば小学生の頃「あなたは嫌われてるからわたしがあなたと遊んだことみんなに言わないでね」って言ってきた女子や「二次創作小説を“小説”と呼ぶのは抵抗を感じる」と言っていたガルシア=マルケス好きのオタク女やわたしにフェミニズムを教えた高校の同級生など、ささやかだけど忘れがたい、心に引っかかりを残しているさまざまな人々、感情についての文章。友達が書いてくれた表紙絵と裏表紙のシェフレラが最高。

 

・「永遠だ、海と溶け合う太陽だ。 特集女と人生」(2020年8月発行)

mizuaya.booth.pm

「女と人生」をテーマにたくさんの人と共に作りました。たとえば「女は女に人生を賭けられないのか?」というテーマで様々に異なるバックグラウンドを持った女5人が話し合った座談会や、「人生で印象に残っている女について語る」というテーマで約30人から集められたエッセイ、女と女のおすすめ物語ブックガイド、ヴァージニア・ウルフ中島京子松浦理英子少女革命ウテナを扱った評論、創作漫画などが掲載されています。友達が描いてくれた私達の自画像と表紙絵が最高。盛りだくさん。

 

・「monologue」(2020年11月発行)(在庫切れ)

ここ2年くらいに書いた散文を収録したエッセイ同人誌。川上未映子ドストエフスキー少女革命ウテナ、ミッドサマーなど文学アニメ映画なんでも扱いながら書き連ねた文章を収録しています。ある種の日記です。三人の友達に書いてもらった解説がお気に入り。 

 

日記(4/28)

私はいつでも愚かで天真爛漫で単純で素朴で、私の周囲の人はいつでも私よりずっと繊細でずっと屈託があり一筋縄ではいかない拗れた自意識を抱えていて、真逆の性質を持った者同士で摩擦を抱えながらそれでも関係したり、絶縁したりしている。少なくともそういうことになっている。これまでずっと、そんな風にしか他人と関係していない。他に存在の仕方がない。笑顔と愛着と侮蔑と苛立ちが一体になったようなものばかりを向けられて生きてきていて、そうするとそれを悦ぶ他に出来ることはない。悦ぶ。私は悦んでいる。あなたはちっとも傷つかない、鈍感で愚かで単純で素朴で、でもそんなところがあなたの良さなのだと、そういう風に言われることを繰り返していればもはやそれを悦ぶしかない。傷ついたり怒りを差し向けたりするよりは、それを悦ぶしかない。これは消極的なことというだけでもない。何しろ私は実際悦んでいる。敵意と悪意と嫌味ったらしい物言いを差し向けられては涎を垂らして悦んでいる。愛すべき鈍感さ、と言われては馬鹿みたいにうっとりとして受け取った棘を口に含んで舐め回している。こんなことを言われたら他の人はとても耐えられないだろうということを言われ続けても、私はそれを望んでると思う、こんな風に歯に衣着せない物言いをするこの人をたまらなく素敵だと思う、誤解の余地なく辛辣でいてくれて本当に嬉しい、実際には私の言っていないことまで読み取って傷ついて怒ってそれをこちらに伝えて詰ってくれて存分に責め立ててくれて本当に嬉しい、はっきり言ってくれてありがとう、私はあなたの辛辣さがたまらなく好き、そう思う。悦んでいる。少なくともそう思い込んでいる。でなければどこにも行けない、誰とも関係できないから。だからいつも、自分は繊細で、気が利いて、色んなことが見えてしまって理解できてしまってとても辛い、いつも辛い、と誤解の余地なく他人に伝わる仕方でわかりやすく嘆いては自分と同様の理解力も洞察力もないとみなした人を無神経単純素朴鈍感と揶揄するその麗しい無神経さが、余りある単純さが、心底から羨ましく眩しい。語られてない意味を自ら見出しておいてその責を他人に負わせてなおかつ自分だけが本当に辛い、自分だけが本当に迷惑してるのだと大っぴらにアピールしてみせるそのあっけらかんとした振る舞いは何より素敵で魅力的でいつだって夢中になってしまう。私は悦んでいる。たとえどれほど辛辣であろうと、侮蔑を差し向けられようと、遠回しの嫌味と含んだ物言いと鮮やかな憎しみと鈍い苛立ちをどんなに向けられようと、私はそれを向ける当の人に自分はたまらなく好かれているのだと信じ込んでいるし、そんなことをする人のことを私はもちろん大好きなのだと信じ込んでいる。私は悦んでいる。いつも、いついかなる時も、笑っている時も、泣いている時も、あなたが読み取らない仕方で積もっていく自分の中の鬱屈を感じている時も、本当にどんな時でも。

日記(4/24)

正しい人生。こないだ中高時代の友人の結婚式に招待されて出席してからずっと、「正しい人生」をたくさん浴びてしまって、それがまだ拭いきれていない、という気がしている。

 

結婚式はとてつもなかった。それは人生の正しくない人はお断り、というかそもそも想定していません、と言わんばかりの空間だった。家と家の親、兄弟、祖父母が参列していて、脈々と受け継がれる人生の正しさを感じた。二人の職場の上司がスピーチをしていて、長ったらしくどうでも良いスピーチはひたすらどうでもよく、けれども私の友人は当然ながら嬉しそうに聞いていた。結婚式で流される二人の幼少期からのムービーは素晴らしく順調な人生そのもので、その順調な人生の延長線上に今回の順調な結婚があり、その順調さを祝福するために配置された家族や友人達がおり、家族や友人達の存在はもちろん順調な人生それ自体なのだった。

順調に積み上がっていく人生。祝福されるべき人生。正しくまっとうな人生。

私の友人はとても良い子だった。彼女は今でも私の友達なのだった。だからどれほど結婚式の全てにうんざりしようとも、演出される膨大な量の正しさとその承認に息がつまる思いをしようとも、結婚式に出たのだし、出たからには笑って祝福する。私は彼女の友人なのだから。彼女の幸せを祈っているのだから。この私の個人的な愛情、友情がある側面から見ればシステムを温存させるひとつの歯車でしかないことを知りつつも、他に何もできないような気がして微笑む。ワンピースを着る。お祝儀を包む。もらってきたバームクーヘンをひとりの部屋で食べる。正しい人生。私は何はともあれ彼女の正しい人生の一部なのだから。

 

結婚式に出たことも、帰ってからしばらくしてまた続いていく現実も、何もかも、奇妙な気分だった。私と彼女がかつて友人だったこと、かつてからこれほど変わってしまった今も友人であること。色んなレイヤーが重なっていくようで、奇妙だった。重なりゆく複数の現実。

 

そして奇妙な気分になりながら私は最近ずっとソシャゲ――ウマ娘――をやっているのだった。ウマ娘。明るく愛らしく美しい人外の女達。耳と尻尾を生やした女達。史実を元に形作られた非実在の女達。美少女動物園、としばしばそんな風に呼ばれる類のものだろうその設定は、「美少女動物園」の言葉の響きから予想されるようなグロテスクさはさほどない。

むしろ私には勇気付けられるものでさえある。

ソシャゲの中の女達はただ可愛らしく、「見られる性」として現実の女達が多かれ少なかれ抱えるあの屈託から解放されている。彼女達は「見られる」ことに何らの傷も負わない。二次元の女達は現実の女と違って、どんなに「見られ」てもどんなに「消費」されても決して傷つかず損なわれることがなく損なわれる可能性を内面化していたりもしない。決して傷つけられず損なわれることのない少女達。彼女達はだから、叶えられなかった祈りの具現化そのものであるかのように思えて、私はいつも夢中になってしまう。

彼女達は部分的に、私自身がかつて通っていた女子校の女達を連想させもする。

だって、アグネスタキオンみたいな喋り方をする子は実際に周りにいたのだ。女子校を出てからまるで出会わなくなったけれど、トウカイテイオーのように僕が一人称の子は普通にいた。アグネスデジタルのテンションは、たとえば中学生の頃の部室(※テニス部)に百合姫を持ってきた友人を思い出しもする。マンハッタンカフェのようなイマジナリーフレンドを持った子だってもちろんいた。セイウンスカイみたいにいつも眠そうでヘラヘラしていて、けれどもある場面になるとびっくりするような鋭さを垣間見せる子だっていた。シンボリルドルフのようにリーダーとして周囲に尊敬され、けれどもいささか間の抜けた子もいた(彼女も私服は原色だった、だからシンボリルドルフが緑の服を着ていて妙に納得してしまった)。

女子校の女達は誰に憚ることもなく自身の能力を誇っていた。私たちのライバルは私たち自身であって、男と比べる必要も最初から別枠扱いされることもなかった。ウマ娘達が牡馬と牝馬に分かれていないように、私たちは私たちと競っていた。だからゲームの中の女達に不思議な懐かしささえ感じるのだった。

 

とはいえもちろん、全てを同一視できないことは知っている。

繰り返される現実は実際にはただ一人の私の中に記憶として積み重なっていく。私はもう女子校に通っている子どもではないのだし、キャラクターは結局のところ単なるキャラクターであってそうでしかないのだし、どんなに部分的にキャラクターと実際に知っている人々に共通点を見出そうと、それは見出そうとして見出された共通点でしかないのだった。ゲームの中の物語はパターンに分かれて決まっていて、何をしたところであらかじめ決められた物語を単に読んでいるだけだった。育成を繰り返すように、私がもう一度中学生にも高校生にもなることはない。

そもそもどれほど私が奇妙な感慨と愛着を持ってゲームに励もうと、キャラクターのひとりひとりに愛着を覚えようと、一方では美少女動物園という名前で呼ばれるもののひとつなのだった。私の愛着。私の思い出。私の現実。私の理想。私の夢。叶えられなかった祈り。懐かしさを持って思い出す友人達の姿。画面の中の少女達への愛着。トレーナーという実に素晴らしい立場への拘泥。アプリとアニメとうまよんと二次創作と自分自身の思い出の中で重なりずれていく複数の物語とキャラクター。そういう全てを粉砕するかのような言葉としての「美少女動物園」。正しい人生とは程遠い言葉を口に含んで舐め回し、転がしながら全てをスキップし、時に手を止め、幾度となく見つめたシーンをもう一度見つめ、飽きることなくスクショしている。こびりついた「正しい人生」を擦り落とす方法が、他には何ひとつ思いつかないから。

日記(4/21)

日記を書くのは苦手だった。個人的なことを書くことは苦手だった。日常のささやかな物事を大切に掬い取り、論理に回収することなく扱うことは不得手だった。

私が得意なのは抽象的で社会的で、要するに具体的な人生に関わらないことだった。

そして誰かに向けて書くことだった。誰かに向けて--言うまでもないことだけど、誰かに向けて書かれた文章は、内容に関わらずそれだけで感情をドラスティックに揺さぶることができる。とりわけ二人称は強力である。あなたに向けて書く、その「あなた」が具体的には誰なのかまるでわからなくても、「あなた」の内実がどこにもなくてただ単に感情を高ぶらせる記号でしかなくても、何はともあれ「あなた」に向けて書かれた文章はそれだけで強く情緒的になる。私は「あなた」に呼びかける文章が得意だった。有り体に言えば「エモい」文章を書くことが得意だった。規模はささやかながらも、ある程度インターネット受けするような、つまりは短時間で感情を強く揺さぶり衝動のままにリツイートしたり適度に短い文章を添えてシェアしたりすることが容易なような、そんな文章。

エモーショナル。オタク二次創作小説を書いていた頃、寄せられた感想ではしばしば「心臓が痛い」という言葉が使われていた。心臓が痛い。そんな言葉で埋まったコメント欄を見て、かつて私が大好きだった友人は「あなたの読者にはみんなAEDが必要」と言って笑っていた。ささやかな侮蔑がこもった笑いで、私は今でもそれを心地よく覚えている。私の感傷を突き放し見下し投げ捨てる笑い。

要するに私の書いていたものは概ね、過剰に詩的な装いはなく単純な言葉の羅列にもかかわらず、異様に感傷的な文章だった。じっくり腰を据えて考えることを促す文章よりは単に高ぶらせるアジテーションの方が得意だった。それは実に正しく私の人間性を体現していた。浅薄と感傷。物事を丁寧に捉えるよりは雑に認識して強く感情的に反応するところ。情緒と浅はかさは常にセットだった。私はある意味で、他人に感情的に同一化することがとても得意だった。何はともあれ「エモーショナル」にしてしまうのだし、何はともあれ具体的な内実よりも抽象的で誰ともわからない「あなた」に呼びかけてしまうのだから。

 

ところで、最近読んだケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」という本の中では、文学史に名を残す著名な作家たちの妻に焦点が当てられていた。「狂女」の枠組みに押し込まれた女性たち。自らも作家になることを欲したにも関わらず、女性を客体化する社会によって押しつぶされ、作家の夫によって物語の登場人物にされた女性たち。描かれてしまう、つまりはキャラクター化され消費される人々。「ヒロインズ」を読みながら私は、妻たちに、妻たちを描き出す作者に部分的に近しさを感じながらも、身近な他人、それも苦しみ悩む他人を自身の物語の中で描いた夫たちを自分から完全に切り離すことはできないような気がしていた。ある意味では夫たちの方がむしろ、より近いのではないかと。

同じ頃、ノートで炎上したエッセイを冒頭だけ読み、そのエッセイに対する様々な批判を目にした。批判されていたのはエモい文体で他人を「消費」することーー要するに自分の理解の枠組みに都合よく他人を当てはめ、都合よく切り取り、自分の枠組みからはみ出す個別具体的な部分には目もくれないこと、そしてその全てを感傷的に包み込んで免罪してしまうこと、さらにはそれを商業利用することーーであった。商業利用はともかくとして、その他の意味での「消費」はよくよく知っていることであり、自分から完全に切り離すことはできないように感じた。いかにも自分もまたやりそうなこと、すでによくやっていることではないかと。文体や内容がどれほど違ったとしても、本質的にはさほど変わりはないのではないかと。エモーショナル。

私だったらおそらくは「デート」ではなくて、怒りを書く。自分自身のものではない怒りを、あたかも自分のものであるかのように錯覚して、まるで代弁するかのように書く。軽んじられ消費される「自分以外の誰か」に極めて強く同一化する。それはきっと、いかにも威勢の良いアジテーションになるだろう。

 

日記(4/15)

私たちは同じではない。あなたが被った惨めさを、あなたが受けた暴力を、あなたが生き抜かなければならなかった苦境を、私は何ひとつ知らない。

 

女性同士の連帯=〈シスターフッド〉を描いた物語がだんだんと増えていく。

現実には「分断されている」のだと受動態で語ることさえ憚られる差異の存在に、手を取り合うこと、手を差し伸べることの困難さに直面しているにもかかわらず、物語の中の〈私たち〉は喜ばしく微笑んでいる。現実の私たちは隔たっている。あなたは私をひどく憎み、私はあなたにうんざりしている。剥き出しの差異は私たちを「連帯」には導かない。それが私たちの現実だった。けれども、この剥き出しの差異と困難を描いたらそれは〈シスターフッド〉とは呼べなくなってしまうのだろうか? 言うまでもなく理想を描くこと、勇気づけることは何より大切である。けれども、だからと言って剥き出しの差異よりも破滅的ではない差異を、ぶつかり合った末での決裂よりも失敗に至らない程度の距離感を保った上で優しくすれ違う様を描いた物語の方が〈シスターフッド〉ということになるだろうか?

 

たとえば今年の二月に公開された山内マリコ原作の映画『あのこは貴族』は、破滅に至らない差異が、程よい距離感を保った上で優しくすれ違う様が、〈シスターフッド〉映画として語られ宣伝されていた。[1]

『あのこは貴族』で描かれるのは、同じ国の同じ場所(東京)に住みながら、一方は新年の挨拶に親戚揃って都内のホテルで会食するような上流階級の女性であり、他方は地方から上京し慶應大学に入学するも学費が続かず中退する女性である。通常出会わないこの二人の女性が、男の正妻と浮気相手として出会うことになる。

この映画では、そんな異質な二人の交流が、反目し合うのではない形で――過去の固定観念からすれば、正妻と浮気相手という立場上、憎しみ合う姿が描かれるのがセオリーである――描かれ、なおかつその出会いによってとりわけ「お嬢様」の方が人生を自らの手で舵取りするきっかけとなるところが描かれるのだった。

ある女性との出会いが、別の女性を勇気付けること。そして二人の女性がそれぞれ、男性との関係ではなく、各々の親友の女性との関係に帰着すること。「差異を無効化することなく、差異があってもなおエンパワメントしあえる」様を描いたのだと。

けれどもこの〈シスターフッド〉を支えるのは、境界線によって隔てられた上で手を振り合うような距離感なのであった。彼女達は頻繁に会うことはなく、持続した関係性を築くこともない。文字通りすれ違い、あちらとこちらで手を振り合う。頻繁に会い、持続した関係性を築く友人は各々自分の階層にすでにいる。

程よい他人――つまり、わずかにすれ違うのみなら、さほど長く共に過ごさないのなら、差異が破滅に至らないのはある意味では当然ではないのか? あちらとこちらで手を振り合う、それが〈シスターフッド〉であるなら、あちらとこちらになってしまって手を振り合うよりはむしろ手を振りほどいてしまうような、そんな差異をどう考えたらいいだろう?

手を振りほどきたくなるほど近くよりはむしろ、あちら側とこちら側で手を振り合えるように、程よい距離を保つこと。それがこのあらゆる差異を抱えた中で生きる私達が、にもかかわらず〈シスターフッド〉を成立させるためのひとつの条件だとしたら、この成功したシスターフッドは本当に希望なのだろうか? 希望と言うよりむしろ、あまりにも残酷な処世術に近いのではないか? そんなことはわざわざ描かれるまでもなく、わたしたちが常にやっていることではないのか? 距離を置くこと。程よい他人でいること。持続した関係を築くよりも、手を振り解きたくなるほど近づくよりも、単にすれ違うこと。

 

『あの子は貴族』の女性たちは、優しくすれ違い、あちらとこちらで手を振り合い、各自が属する階級に、そこで長い時間を過ごす本当に近しい友人のもとに帰っていく。それはあまりにもやさしかった。寒々しいようなやさしさだった。だから相変わらず、私はあなたのことを何ひとつ知らない。

 

[1] 文学、お笑い、映画が描く女性の連帯。『あのこは貴族』山内マリコとAマッソ加納愛子が語る、シスターフッドの“いま”(https://moviewalker.jp/news/article/1020939/),(二〇二一年四月十日閲覧)